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これから――西芳寺苔庭に寄せて

2023/12/21

苔庭に共生の未来を見た。西芳寺には日本最古の枯山水がある。七世紀程前に組まれた石である。その庭は、外に向けて魅せる虚飾の仕掛けから、自らを滅し空蝉の存在を辿る鏡への分水嶺になったという。庭は閉じられている。一般開放はされていない。修行の場として古来より伝わる地霊を守るためであろう。それゆえに一般参拝者向けの事細かな手を入れていない。所々に土が苔を破って地肌を空気に晒している。だからといって荒れている訳ではない。苔に刻まれた傷跡は自然の成せる技である。先の台風に根が耐えられず幹が倒れ梢が切り開かれたという。梢が開くと陽が差し込む。陽が差し込むと日陰を得意として快適に繁茂していてた苔は枯れる。枯れると見苦しくなる。その見苦しさを良しとしないのが世の大半で、新しい苔を植えて回復を図る。西芳寺はそれをしない。七年間待つのであるという。枯れたコケにも滋養がある。その死骸をエサとして日向を得意とする新たな苔が育つのだという。その新たな苔が皮膚の傷を覆うように自然と育ち、地下の細菌叢の水気を守る。守られた細菌叢が樹木に滋養をつけ、枝を伸ばし梢を閉じる。そこに多様性が生まれる。食うも食われるも同じこと。枯れることは新たな命を紡ぐ一頁に過ぎない。かつて陽当たりよって枯れた種は、雌伏の時を超えて芽を噴き新時代を迎える。一見すると美しい西芳寺の苔庭は無数の種が共生し、ありとあらゆる手球を揃えた強き社会である。

菌類の研究はどうしても繁殖皿の純粋培養になりがちであるという。世の中のいわゆる体内細菌を補助する医薬部外品の説明を見ると、個々の菌の効能がうたわれている。同様に苔も苔の研究も同じで、個々の種の研究に陥りがちであるという。その理由は解りやすいからである。その先に科学がある。科学は分析の学問である。一方でいくら分析しても西芳寺の苔の理解は叶わない。西芳寺の苔庭の意味は立ち入らず対峙することにあるという。立ち入ることに意味はない。あるがままの複雑をそのまま受け入れ、そこに自らの像を見いだす。答えは個々の石にあるのではなく、事物と事物の間にある万象の関わり合いにある。

場を占めるということと、場を造ることには大きな違いがある。場を占めるということは、現世の空蝉と同じで借りの姿に過ぎない。その一方で場を造るということは、人に便宜に合わせて自然を繕うということである。西芳寺の苔は仮にひと時だけ間借りしてるに過ぎない。しかも同居人がいる。シテとツレが入れ替わりつつ主役を演じるように、場の転換に応じて入れ替わる。その場を「しつらえ」と呼ぶ。西芳寺の庭師は借りの「しつらえ」を整え、入れ替わりを演じる苔を助ける。場を造るということは、場そのものが主役であることを意味している。場そのものが主役となると、場が演目そのものを司り始める。主客の転倒である。これが西芳寺以外のかなりの庭における手入れである。そうなると、土は醜い禿げとし新しい苔を持ち込んで修復する対象となる。池の水も抜けぬように防水の工夫が不可欠となる。

都市や建築の美しさの本質はそこにある。都市や建築は生き物である。雨が降れば汚れ陽が当たれば色が褪せる。必要に応じて修復が入る。そこに多様性が生じる。そうして生じた多様性には意味があり、不思議なことにその意味性が同位体元素のように怪しい光を微かに放ち始める。言わずとも人々はその波動を感じ取り、その場を愛でるのである。純粋な建築は美しい。熱処理を施された吟醸酒に似て、いつでも変わらぬ旨みを提供する。しかし大衆は浮気性である。純粋に研ぎ澄まされた建築だけの都市を想像してほしい。森の中に一棟だけ佇むミース・ファンデル・ローエのファンズワース邸は美しいが、百件のファンズワース邸が建ち並ぶ街区は、未来世紀ブラジルが描く都市のように恐ろしいに違いない。ル・コルビュジエの描いた「輝く都市」のビジョンを採用しなかったパリは賢明である。ル・コルビュジエのラ・ロッシュ邸は都市にあって美しい。それをル・コルビュジェの天才に帰するのは間違いである。古いパリの石壁の間にあって、時を経たル・コルビュジェの天才がピカソの絵画のように輝いているに過ぎない。結局のところラ・ロッシュ邸の美も、周辺の街区に依存しているのだ。ハーバード大学キャンパスにあるカーペンターズセンターが輝かないのは、それが生息すべき共生叢が周辺に存在しないからであるように思う。

虚飾には限界がある。ドブロクニクという例えようもなく美しい城壁都市がクロアチアにある。その小さな城壁都市が不動産ブームに沸いている。レストランに入るとサラダ一皿100ユーロを請求された。ホテルに泊まると一部屋500ユーロ払っても普通の部屋にしか泊まれない。その異常な価格の源は海外からの投資にある。途方もない資産を得たIT世界の成功者達が、続々と城壁沿いの家を買い求めているのだという。それも豪邸ではなく、かつてごく普通の商人や漁師の家族が住んでいた家を。そしてボートを手に入れて海へと漕ぎ出し魚を釣るのだという。ニュージャージーであれば、豪邸を買えるお金を使い、ファーストクラスの切符を買い、結局のところは地元の漁師と同じことをしにきている。結局のところいくらお金を稼ごうと人の本質は変わらない。人が求めるのは文化や自然とにつながりである。

豊かな時代あって未だに土地を奪い合ってる国々がある。奪った土地に新しい都市を築き純粋な民族地域を植えようとしている。しかし本来純粋な人間など存在しない。全ての人間は雑種である。西芳寺の苔に答えがある。待つことである。自然は答えを持っている。種は混じりあい、次第に安定の時を迎える。無理して植えられた純粋な苔は常に手入れを必要とする。手入れをしないと枯れてしまう。

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