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命の建築

2023/12/4

暁の前の黎。家族の気が机の下からキッチンの裏まで流れている。夜明け前のひと時。娘の誕生と同時に完成した自宅の床板は既に飴色。踏み出すと足裏に20年の想い出が滑らかなピアノの調べと共に脳裏に浮かび上がる。子供達が起きる前のひと時。音を立てぬように抜き足差し足。これから朝食と弁当を作る。食卓を共にできる家族がいる途方もない幸せ。玉ねぎを2ミリにスライスして圧力鍋に入れる。圧力が上がる間に鰹節を削る。味噌汁一つでもかなりの手間がかかっている。睡眠が足らない体が悲鳴をあげている。それでも「味噌汁が美味しい〜」という子供の一言で、また明日も頑張ろうと思う。我が家で食事に費やすエネルギーは無駄なほどに大きい。健康を考えてということでもある。もちろん健康は大事であるが、それ以上に家族のつながりに「食事を作ること」が大切であると気がついたからでもある。犬も猫も餌をやる人間に懐くという。本能であるから当然である。親鳥が必死に雛鳥にエサをセッセと運んでいる様は誰しも映像で見たことがある光景である。「家族円満の秘訣は?」とよく聞かれる。その時決まって私は、「エサやりですよ」と言うことにしている。当たり前のことである。しかし同時にそれがどの家でも当たり前ではないことに、私達は仕事を通して気がつくことになった。漫画サザエさんは一般家庭の景色として描かれた。4人もしくは6人の家族像は2/3を占めていた。しかし今やサザエさん型の家族はごく少数である。1/3とも言われる。さらに、放課後家でお母さんが待っていてくれる家庭となるともっと少ない。親は親で忙しくて、エサやりは二の次になっている。幸いにも私達は同じ会社を夫婦で運営している。その為、どちらかの親がエサやりに帰ることができた。この景色はもはや当たり前の姿ではないことに私達は気がついている。そして今や親鳥より大きく成長したうちの雛鳥達もわかっている。さだまさしの「妹」という歌がある。その歌の下に「もすこし居させて」という今の幸せを噛み締めるシーンがある。雛の餌やりは「命をつなぐ」行為である。雛の命は自分の命の続きである。エサやりは命をつなぐ為に必要な本能である。

食の他にもう一つ大切な命をつなぐ為に必要な本能がある。営巣本能である。鳥にとって営巣は命をつなぐために大切な技術である。数ある動物の中で人間はその営巣本能を肥大させた動物といえる。建築は全て巣である。太古の昔は建築という巣を作る専門家など居なかった。それぞれの人間が必要に応じて小屋を作ればよかった。しかし文明が生まれてから、素人だけではどうにもならなくなった。大工という職人が生まれる。それでもき近年までは必要な建設技術はどうしても必要な構造や工法に限られていた。しかしそれは百年以上昔の話であって、今の建築は一人の人間の理解力を超えて極めて複雑である。住宅でさえ五万点以上の部品が存在する。大型建築物になると、コンピューターの集積回路以上に複雑である。その複雑な問題を解く為には様々な知識が必要で、多数の専門家の協力が必要になる。本当はその複雑な建築を統御する行為は建築家の役割である。「本当は」という但書をつけるのには理由がある。建築はその統御があまりにも大変で、どういう目的に向かって統御していくのかというところまで手が回らないのである。

建築学科では巣の大切さを教えない。巣を作らなければ命がつながらないのだということを教えない。建築は誰のために作るのであろうか?建築学科は専門職の学校であるから、作り方を教えれば良いという考え方もある。それでは誰が建築の目的を考えているのであろうか?実のところ建築の目的を教える専門の学校など存在しない。現実の世界では建築の目的がわからないと困ることに気がついた様々な分野の賢い建築界外の人達が、建物を建てる機会ごとに手探りで試行錯誤を続けている。集合住宅を作る時は、出資のリスクを背負う開発業を請け負う会社の社員が決断を下す。建築家の役割はどうすれば美しくなるかという提案と、必要な建築技術の統合である。高層ビルのような大きな商業建築を作る時は、商業の専門家や都市計画の専門家がチームに加わる。経験の豊かな建築家は、「どうすれば美しく住みやすい都市ができるか」と語るであろうが、残念ながらその役割は単なる提案者にすぎない。建築家が全幅の信頼を得ていない理由はいくつかある。第一に多くの人達が今の醜い現代都市を作ったのは建築設計者に違いないと思っている事。確かに全ての建物の建設に際して、なんらかの設計者が図面を制作している。第二に建築設計者が必ずしも建築の目的を考える専門家ではないことに気がついている事。前述のように建築学科では何故誰の為に作るのかという授業をしていない。大学の建築学科では何事にも客観性が求められる。教員の資格審査の時は特に専門性が大切になる。アカデミックな世界では、「何故誰の為に作るのか」というテーマは茫洋とし過ぎていて、論文にならない。100プロジェクトがあれば100の答えがあり、一つの真実は存在しないからである。「何故誰の為に作るのか」という判断は、経験の積み重ねにかかっている。

私達は幸運にも「何故誰の為に作るのか」という根本的な問いに関わる機会に多く恵まれた。誰の為にどういう巣を作るのかという根本的な仕事である。これは子供に食を与えて育てるという行為と同様に、人間の生存本能に根ざす命を紡ぐ行為である。自宅を作ってもう21年になる。正確に21年という数字を覚えているのは、家の竣工と娘の誕生がほぼ同時であったからである。その21年の時を通じて、家の存在の大切さを肌身をもって感じている。今の家なくして現在の手塚の家族は存在しない。自宅は普通の住宅ではない。家は殆どワンルームで、寝るときだけ子供達は押し入れのような子供部屋に引っ込んで眠る。子供達の友人はその小さな子供部屋に驚く。そしてその驚きには多少の同情が込められている。心配はいらない。彼等は極めて幸せなのだ。子供達はこのせせこましい住宅が大好きである。気持ちの良い季節なると家の中が虫だらけになる。息子の靴の中にクワガタが入っていた。飛び回るコガネムシが夜になると照明にぶつかって実にうるさい。ある日その理由に気がついた。息子は一人になると窓を大きく開け放ち、リゾートと気分でアウトドアチェアの上でくつろいでいたのである。娘は家の陽だまりで傘から足だけ出して寝転んでいる。我が家には大きなテーブルがある。長さが4メートル、重量が300キログラムある。この誰も動かせない巨大テーブルで殆どの生活が行われる。娘と息子はそのテーブルを再現なく回り続けて育った。それがふじようちえん設計の時のアイデアの元となった。

講演会に行くとそういうごく当たり前の話をする。大学でも学生達に同じ話をする。すると殆どの人達は褒めてくれる。いつの日からであろうか?こんなに普通の我々を褒めてくれるのは何故なのだろうという事が気になり始めた。もしかすると上野動物園のパンダのように、我々は珍獣家族として見られているのではないか?確かに田園調布の住宅地界隈を見渡すと、我が家のような家は存在しない。確かに珍しいのである。先日息子が興味深い話を持ち帰った。江ノ島近辺の海沿いを友人と歩いていたそうである。ふと、友人の一人が「この近辺に住むんならあんな家が良いよね。」と崖の上の家を指差した。「ああ、あの家はうちの親が好きそうな家だね。」と息子は答えた。それからなんとなく家に帰った息子はその事が気になって、その家のことを調べ始めた。するとその家が「メガホンハウス」という、両親が設計した家であることに気がついたのである。この要点は「だから良い家でしょ」という自慢することにはない。その話を息子がするということに意味がある。そのくらい彼の中には自宅の生活の本質が染み付いているのだ。我々が設計した家は目立つ。だからといって私はパンダになりたい訳ではない。目立つことは目的ではない。当たり前の生存本能として、家族の為の巣を作った結果なのである。

世の中の本当のあたりまえを探したい。当たり前の空間を考えることは難しい。世の常識というものは、必ずしも人の為に作られていない。世の中は行政側の都合でできた時代遅れの制度や経済性を重視して作られた工法が溢れている。皆が子供が自由に遊び回れる街がなかなかできない。冷蔵庫のような一瞬でも滞在したくない病室が並ぶ病院。街路に冷たいショーウインドウと壁だけを向けた内向きの大型建築物。それぞれの建築にはそうなったそれぞれの理由がある。そしてその中で皆さんはそれが常識だと思って生きている。しかし一歩下がって「命の建築」という根源に立ち返ると、その常識が常識でないことに誰しもが気がつく。

かつてあたりまえであった常識が時代の変化で非常識になることもある。1980年代までは結婚家庭のほぼ2/3に専業主婦が毎日家事をこなしていた。その割合はその少し前の高度成長期に立ち戻ると、もっと高かった。いわゆるサザエさんか型の家族は日本のどこにでもいた。カツオとワカメが家に帰るとお母さんのフナさんがおかえりと迎えてくれる。お姉さんのサザエさんはタラちゃんと入婿のマスオさんを待っている。フナさんとサザエさんは専業主婦である。今どきサザエさん型の家族はほぼ絶滅危惧種である。三世代同居の家族像は微笑ましい。テレビ番組のネタとしては素晴らしい。しかしながら、実のところサザエさんは時代劇なのである。今や専業主婦の割合は結婚家庭の1/3過ぎない。サザエさん型の三世代同居に至っては最早1/50に満たない。最近、埼玉県で子供を一人にする事を禁止する条例が議員団から提出されて大騒ぎになる事態があった。子供だけを公園で遊ばせてはいけない。子供を一人家に待たせてはいけない。流石にこの条例案は子育て世代の大反対に晒されて取り下げとなったが、驚くべくはその常識はずれの議員が多数派を占めていたという事である。県議会議員は県民の意見の代表する立場の有識者である。県がどこにどのくらいのお金を使うのかを決める大切な役目である。議員達は少しでも子供環境を改善するべきと考え善意で条例案を提出したことは間違いがない。議員の意見は世の中の常識を反映している筈である。世の中ではそれほどまでに、従来型の専業主婦が子供を家で待っている家庭が少数派であるという事を知らなかったのである。世の中の常識と実態の明白な剥離が起きている。

世の中の常識と実態の剥離が起きると、作られる建築と実態の剥離が起きる。世の中は創造性を凝らした新しい現代建築をみて感嘆するが、実は全ての建築は時代遅れなのである。建築は常に時代の最後尾を行く。建築を作る時にはまず予算を考える。予算の算段ができたら設計をする。それからようやく建設に取り掛かる。住宅の場合はそのプロセスに最低でも2年。場合によっては5年以上かかる。病院や学校のような大型建築物となるともっとその期間は長い。建設期間の事を言っているのではない。時代の変化に合わせた建築のあり方を考え始めてから完成するまでの期間である。病院や学校は無数の条例に基づいて作られている。条例は過去の事例に基づいて有識者会議が設定をする。その有識者の中には先見の明をもつ人がいて、少しずつ条例が変化する。その変化した条例の意図を地方の行政機関が理解するまで時間がかかる。かつて手塚由比は幼稚園の設計基準を設定する委員会に加わっていた。ところが自らが設計する立場になって案を地方行政に持って行くと承認されない。私は設計基準を設定している委員だと言っても全く通らない。文部省には教育政策研究所という未来の建築像を模索する素晴らしい組織がある。そこで手塚貴晴は基調講演を行なっている。そこでは従来型の壁で60㎡毎に分けられた教室はもう時代遅れだという認識が浸透している。しかし設計者として地方の審議会に持って行くと、そこには別の有識者の委員会があって、「教室を壁で仕切らなけれれば学校の認可は下ろせない。」という。かれこれ壁のない学校について国立教育政策研究所で話し始めて15年以上になるが、地方の行政判断はなかなか変わらない。意外な事に、設計の専門家が変化を拒む場合もある。建築設計者を選ぶ際には有識者が審査員として携わる。その設計の有識者が過去自らの事例に基づいて先進的な事例を設計競技の専門委員として拒否した例をいくつも見てきた。むしろ教育者の側の方が未来を見ている。その設計競技では教育関係審査員の方が遥かに未来を見据えた素晴らしい教室構成を支持していた。学校建築が変わるには、まだ20年以上の年月を要すると思う。今で完成している学校建築の殆どは時代遅れなのである。20年ほど前のことになるが、学生の設計を審査員として指導していた時のことである。「商店街ではファサードラインというものが大切なんだ。人々は店先を物色しながら楽しむから、君の案のように店を道からセットバックしてしまうと、界隈の楽しさが薄れてしまうんだよ。」と指摘をしていた。すると都市計画の専門の先生から「建物は少しでも道からセットバックして公共空間を広げた方が良い。できれば緑を道路と敷地の境界に植えて、人に優しい都市を作りなさい。」と言われたという。一見するとその都市計画の専門家は正しいことを述べているような気がする。しかしよく考えてみて欲しい。商店街の店が植え込みの向こうに全部隠れていたらどう思うか。商品が見えない店に行こうと思うだろうか?植え込みを踏み越えてまで、ヒヤカシでも店にふみこもうと思うだろうか?その先生とは相当議論したが、ついに最後まで折り合いを見つけられなかった。その先生は「緑が商店街にあった方が良いですか?」というアンケートをとって、当然のことながら「緑があった方がよい。」という答えが大半を占めたのだという。実はそのアンケート自体が、緑が「あった方がいいでしょう」というバイアスを含んでいるのであるが、答える側はそのバイアスに気が付かない。客観性の起点に恣意的な誘導が無意識に込められていることに気がついていない。住宅街であれば緑の街区というコンセプトは馴染むかもしれないが、商店街はそうではない。

世の中は常識で溢れている。その常識はかつてどこかの時点で誰かが良かれかしと思って作り上げた習慣である。習慣は決まりとなる。一度決まりが出来上がると容易には習慣は変えられない。決まりと称した法律やガイドラインが正しいと人々が思い込み始めるからだ。常識が非常識に変質しているのに変えられないこともある。しかし一歩下がって考えると、その習慣には客観性が存在しないことが多々ある。イギリスにはcommon lowというものがある。良識は法律を凌駕する。私が学んだペンシルバニア大学には「モラルなき法は無意味である」という校訓がある。その両者の意味するところは「胸に手をあてて素直に考えれば何が正しいかわかるでしょう?目的を失った法律は意味がないから考え直しなさい。」という示唆である。

建築の世界で一つだけ時代を経ても変わらない価値がある。命である。太古の昔人は営巣本能に基づいて建築を作ってきた。その素直な心に立ち戻ることができれば、時代を超える建築を模索することができる。私達に多くの示唆を与えてくれたピーター・クック卿という友人がいる。ピーター・クック卿はハイテックスタイルの元を作った巨人である。本来友人と呼ぶには烏滸がましいが、そういうお付き合いを30年以上に渡ってさせて頂いている。そのピーター・クック卿によれば「分析より観察の方が遥かに大切である」という。Observation is much more important than analysis. この意味するところは、もっと素直に世の中を見てみなさいというメッセージである。「今時の建築の学生は、バスを降りる時どちら側にドアがあるかも考えない」「彼らは屋台の楽しさをなんでわからないんだろう。」卿言葉である。かつて私達がハーバードでレクチャーをした時に、面白い質問があった。優秀な学生の質問である。「どうしたら貴方のように子供のことを理解できるようになるのか教えてほしい。良い本があれば教えてほしい。」もっともである。「君はガールフレンドがいるよね。」「いますよ。」「結婚して一緒に住むのかな。」「そのつもりです。」「そうすると子供ができるね。」「はい。」「子供ができるとわかるから大丈夫。」会場に笑いが巻き起こった。なぜ笑いが起こったのか?は多くの人が「それはその通りだと」思ったからである。それではなぜ彼らは子供に寄り添った建築が作れないのか?それは物事を注意深くみれていないからである。賢いが故に本を現実以上に信じてしまうからである。世の中は研究書に記載されている内容よりはるかに複雑で、同じ答えは一つとして存在していない。その学生はいつも答えていたテストのように一つの正しい答えを求めていたのだ。

建築学科の学生にかけられた洗脳を解くことはなかなか難しい。住みにくい街をあたりまえだと誤解している世の中の人々以上に、建築の目的を大いに誤解している。建築のコンセプトを説明させると、必ず「私は〜したい」という説明から始まる。大いなる間違いである。建築設計は自分の為にするものではない。唯一の例外は一人で住む自邸ぐらいであろう。全ての建築は他人の為に作るものである。「私は〜したい。」という地点から話を始めると、議論がどうしても内向きになる。設計者本人が主人公になって、外の人の都合など二の次になってしまう。学生にそのように教えると、新たな勘違いが起きる。「それでは先生はお施主さんの言うことを聞けば良いと思っているのか?」間違いである。患者が自らの体のどこが悪いのかわからないように、大半の施主は自分に相応しい建築とはどういうものであるかを知らない。加えて施主というのは資金を出す人であって、必ずしも建築を使う人ではない。病院建築の打ち合わせに患者は出てこない。患者は自らの病気を治すのに精一杯で、建築の検討会に出ている暇などないのである。同様に学生は勉強が忙しくて学校建築を考えている暇もない。そして何より医者も学校の先生も良い建築がどういうものであるのか知らないのである。施主にどういう建築がいいですかと冒頭に聞く行為は、患者のどういう薬が欲しいですかと聞くに等しい。プロとして失格である。

私は建築の専門家だけではなく、世の中のごく普通の人たちに読んでもらいたいと思って、この本を書いている。ここで言う専門家とはまだ建築を学び始めたばかりの学生を含む建築関係者の全て。ごく普通の人たちと言うのは、小学校の先生、警察官、八百屋さんに至るまで全ての人たちである。皆さん気がついていないのだ。本当はもっとずっと素敵な街や家に住めるということを。皆があたりまえだと思っていることが実は物凄く変だと言うことを。みんなが仕方がないと思っている問題が、実は建築が引き起こしているということを。

日本で度々驚かされるのは、デザインが無駄な贅沢だと考えている人が非常に多いと言うことである。「デザインばかり考えて使いにくい。」「デザインの為に無駄をしている。」「デザインより物にお金をかけて欲しい。」日々そういうコメントやメディアにぶつかる。確かにこれみよがしのデザインで使いにくいプロダクツはよく見かける。住みにくい住宅もある。しかしそれはデザイナーが悪いからなのであって、デザインすること自体が悪い訳ではない。それはデザイナー不在のプロダクツにも悪い結果が存在するのとなんら変わりはない。

良きにしろ悪きにしろ、設計をするデザイナーがいなければ、物は何一つできない。なぜ悪いデザインが横行するかと言えば、どういうものが「良いデザインであるか」という教育がしっかり日本で行われていないからであるかもしれない。学校には美術という学科がある。それは読んで字のごとく、美しい物とはなんであるかを学ぶ学問である。授業には油絵について解説する時間もあるし、水彩を描かせてみたり、粘度を捏ねる実習もある。確かにそういう授業は芸術の底上げという意味では価値がある。授業があることで、芸術の大切さも伝えられる。しかしながらデザインに割かれる時間は少ない。デザインは芸術ではない。デザインとは芸術活動の一環と言い切れない側面がある。デザインは芸術になり得るが芸術そのものではない。美術館に行くと美しいイームズやプルーヴェの椅子が並んでいることがある。丹下健三氏の素晴らしい模型がある。しかしながら、美術館に入っているそれは本物ではないのである。ショーウインドウに並べられている蝋でできた料理のように、サンプルにすぎない。イームズやプルーヴェの椅子は使われて初めて価値がある。座って寛ぎコーヒーカップを傾けて味わうものなのである。丹下健三氏の本物は美術館に入らない。美術館にあるのは本物の縮小コピーである。建築は見に行って時間を過ごさなければ良さは全くわからない。展覧会に行って、デザインを理解することは所詮不可能なのである。勿論デザイナーの名作を美術館に展示する行為には素晴らしい意味がある。既にそれらの本物を体験している経験者にとっては、改めて見直す機会となるし、それらを見たことのない大衆に対する啓蒙にはなる。ここで言わんとしていることは、デザインはどこに棲息するのかという大前提である。美術館に入っているデザインはインターネットに掲載されている映像同様、単なる情報でしかないのである。

デザインは日常の為に存在する。世の中には大いなる誤謬がある。デザインが非日常の芸術であるかのような勘違いが存在している。だから「デザイン優先の使いにくい品」などという、大きく間違った記事が出回ってしまうのである。デザインの本来の意味は設計である。世の中に設計のないプロダクツはない。同様に設計のない建築はない。誰かが意思決定をしなければ何一つモノはできない。デザインが悪いということは、設計が悪いということなのである。「デザインは良いが使い勝手が悪い」というのも「使い勝手は良いがデザインが悪い」というのも間違った表現なのである。使い勝手が悪いなら悪い設計であるし、デザインが悪ければ悪い設計なのである。

建築は全ての基礎である。この後も繰り返し唱えるが、人間としての生活のほとんどは建築の中で行われる。寝ることも勉強することも冠婚葬祭も全て建築の中である。その建築の良し悪しは、その人間活動の全ての質に影響する。その建築の良し悪しは設計次第なのである。人の命は全て建築の上で育まれているのだ。学校では読み書きを教える。しかし読み書きができなくても人は生きてゆくことができる。その一方で人間は建築なしに生きることができない。よって建築を学ぶことは読み書きと同じくらいに大切なのである。

全ての人々に日本の現代都市がいかに酷いものであるか知って欲しい。人はいつのまにか悪い環境に慣れてしまう。日本の超高層の一階の外周は、ほとんどが壁かショーウインドウである。歩いていても全く楽しくない。かつてどこの商店街にもあった客と店員のやりとりも、テーブルも椅子もない。のっぺらぼうの街である。住宅地は道路沿いのほとんどは醜い塀に囲まれている。みなさん当たり前と思っているかもしれないが、この光景は日本の伝統ではないし世界どこにも見られない醜い現象である。日本における現代住宅の殆どは醜い。工場で作られた製品の寄せ集めである。高級化したバラックである。そのバラックを30年ローンで買って大切に人々は住んでいる。そしてその次の世代はその綺麗なバラックを壊して次のバラックを作る。その繰り返しである。皆住宅とはそういうもので、それを懐かしい景色だと思っている。その一方で誰もが古き萩や倉敷の街並みが、現代に比べて桁違いに美しいことを知っている。

かつて日本の街はかなりの部分が美しい街並みに覆われていた。なぜそれが失われたのか。人々は戦災で日本の街は失われたという。正解でもあり不正解でもある。不正解と言える理由は、戦争直後はその美しい街並みの半分以上が生き残っていたのだ。これは完膚なきまでに完全に破壊されたドイツの都市とは比べものにならない。正解である理由は、戦後に伝統を愛でる心を占領下で破壊された日本人が自ら美しい街並みを壊したのである。ドイツでは壊された街を寸分違わず再建したが、日本は自ら壊し二度と元に戻さなかったのである。今でも覚えているが、私の子供時代の小学校の先生は、いかに日本文化がアメリカのそれに比べて遅れているかということを堂々と教えていた。日本文化の無価値を教えていた。今では考えられないことであるが、事実である。そうやって破壊され尽くされた街に大半の日本人は住んでいる。

街を豊かにすると誰もが豊かになる。かつて私達がロンドンに住んでいた頃、日本に帰るたびに私達は絶望的な気分になった。ヨーロッパの中でロンドンは特筆するほど美しい街ではない。それでも週末に美しい川沿いを自転車で走り、素敵な街並みの郊外で食事ができた。確かに日本でも時折工夫した建物は見かける。しかし大部分は心遣いのかけらも無い建築の集合である。そして大半の日本人はそれに満足している。その醜い街並みを逆手に取り、独特の文化として紹介する若手研究者達がいる。実は同じ現象がアジアの大半の都市で起きている。恐ろしいほどに人を無視した都市景観が蔓延っている。気がつくべくは「この貧しい街並みは、建築設計者という限られた人種が引き起こしているのではなく、日本人一億二千万人が全て甘んじている悲劇なのだ。」ということである。物見雄山の外国人観光客から見れば、カオスの街並みは面白いかもしれない。しかし、私達は日本人として現状をどうしても認めるわけにはいかなかった。

なぜ日本人はこんなにもデザインを軽視する人種になってしまったのだろう。美しい京都や萩や有田を作った心をどこにおき忘れてしまったのか。それはデザインの役割を大半の日本人が教えられていないからでもある。日本にデザイナーが優秀なデザイナーがいないわけではない。むしろ優秀なデザイナーに溢れている。しかしながら、市場に出ると、そのデザインが採用されていない。日本では残念ながら大半の電化製品から家電そして車に至るまで、その大半が恐ろしいほどに醜い。お隣の韓国でさえ遥かに良いデザインを出している。グッドデザイン賞の展覧会に足を運ぶと、素晴らしい作品が並んでいる。「日本も捨てたものではない」と気を取り直して一歩建物から外へ出るでると、グッドデザイン賞をとったような作品はマイノリティーであることを実感する。

世界にはデザインを決定する当たり前の指標がない。もしかすると日本だけではなく、醜い近代都市を作り続けているアジア国々もそうなのかもしれない。私は何も歴史的景観の立ち並ぶアミューズメントパークを作りたいと言っているわけでは無い。過去の建築は必ずしも現代建築のように快適であった訳ではない。過去には衛生状態も悪く、多くの乳児が死んでいた。頻繁に起きる戦争で多くの人々が殺されていた。今美しいと言われている街も、当時は必ずしも洗練されていた訳ではない。今残っている歴史的景観は時代を超えて生き残った少数の猛者の集まりなのである。むしろ私達は時代に相応しい街並みを作るべきだと思っている。その時に指標が大切になる。かつて建築や都市は時の政府、もしくは気候あるいは慣習といった見えざる手によって自然とあるべき姿の範疇に収まって来た。

なぜ過去の街は現代より美しいのか。人々の生活は著しく進化しているのに、人々は古い街並みを好む。不思議なことである。殆どの建築学科が整備されたのはここつい百年足らずの出来事であって、かつては建築専門の教育機関など存在しなかった。一番古いエコール・ド・ボザールでさえ300年にも至らず、しかもそれは例外中の例外である。バーナード・ルドルフスキーの名著「建築家なしの建築」が示す通り、そもそも建築家なる職能は歴史上殆ど存在していなかった。殆どというのは、ブルネレスキ、ミケランジェロ、パラディオといった特別な作家以外は殆ど歴史に残っていない。

過去の都市が美しい理由は時間という魔物に起因する。時間というものは地球上を包み込む風雨と同じで、柔らかい土を洗い流し固い岩石だけを残してゆくように、建築を取捨選択して洗い流してしまう。ただし建築と土砂には違いがある。生き残る建築というのは、必ずしも岩石のように強固ではない。強い柱や壁があれば長持ちするという訳ではない。強度という観点から見れば、鉄筋コンクリートや鉄骨で作られた現代建築は、桂離宮よりも遥かに強い。にも関わらず、これから100年後も桂離宮は生き残るであろうし、現代建築の殆どは壊された入れ替えられることになる。古い歴史遺産に指定された萩、倉敷、有田といった街は補修されつつ生き残っていくであろう。生き残る建築というのは建築の強度ではなく、人々の思い入れの度合いによって規定されるのだ。人々は好む好まざるに関わらず、無意識のうちに時間をかけて建築を評価している。 古い街並みが美しいのは、生き残った猛者の集まりであるからである。

この著作では体系だった一つの定理を示すつもりはない。書かれているのは一つ一つの事例に基づいた症例である。一見すると脈絡のないエッセイにも見えるかもしれない。しかし建築とはそういうものなのだ。建築とは命を育む巣である。建築を設計することは命を紡ぐ技をシェアする行為である。人の人生は複雑である。その複雑さを分析してしまうと、無価値になる。いくら分析しても答えは出ない。真実は無数に存在する事物の間に存在する。分析する前の複雑なつながりそのものが真実と言える。俯瞰して世の中がどうつながっているか見て欲しい。あるがままを素直に見ること。常識が必ずしも正しくはないこと。ありそうでなかったあたりまえのことを伝えたい。

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