5月10日の事である。 我々が設計をさせて頂いたシオンキリスト教会にて銀婚式をあげた。 手塚貴晴と手塚由比は結婚25周年である。 たった二人の式をフェイスブックに挙げたら、多くの方々にお祝いの言葉を頂いた。 素晴らしかった。リングはボストンのティファニーで買った。 今左の薬指には結婚の時と銀婚式の時の二本のリングがくっ付いて並んでいる。 何かお礼の言葉を書かねばと思っているうちに、私の悪い癖で理屈っぽい長文に変貌してしまいました。 お許しください。
なぜ皆さんは本当の教会で結婚式を挙げないのだろう。なぜ皆さんは本当の寺や神社で式を挙げないのだろう。 なぜホテルで式を挙げるのだろう。人生の大切な節目なのに、パーティーに移動する際に便利だという理由だけでホテルを選んでいるとは思えない。 振り返ってみると我々も25年前に赤坂プリンスホテルで結婚式を挙げた。 今となっては牧師さんの顔も覚えていないし、牧師さんであったか神父さんであったかもわからない。 電話番号を聞いておけば良かったと思う反面、多分先方の牧師さんもそれほど私と知り合う気もないのだから、今頃「25年前にお世話になりました」と申し出ても困惑するだけであろう。 セブンイレブンのレジで買い物をするのと大差はなかったと言えば怒られるであろうか。 しかしそのくらいさっぱりしていた。ホテルの教会であるから神聖という空気とは無縁であった。 比較して茅ヶ崎シオンキリスト教会での銀婚式には明らかに神様がいた。 不信心者の私が言うのはおこがましいが、明らかに暖かく包まれた人生の節目が存在した。 皆さんも試されては如何だろうか。やはり本物の教会とホテルのチャペルは別物である。 多分寺院や神社の結婚式も同様であろう。仏様や森羅万象見守られて行う式は、ホテルとは比べものにならない。 なぜ皆さんがホテルで式を挙げるかと言えば、やはり宗教という存在への恐れであろう。 教会に入った途端に教会員の人たちに取り囲まれて、気がつけば自分も洗脳されて、あれよあれよという間に洗礼槽にザブリと浸けられてしまうのではないかと心配しているのである。 行く場所によってはそういうこともあるのかもしれないが、ちゃんとした歴史ある教会では私の知りうる限りそういう出来事は見たことがない。 ちゃんとした宗教では、自ら望まない人を勧誘してはいけない事になっている。 私の知っている教会員の方々はごくごく普通の方々である。むしろ巷の人々よりも良識が高いと言って良い。
前置きしておくが私はどの宗教にも属していない。 しかし仕事上教会や寺院に出向くことが多い。 キリスト教の日曜礼拝には末席ながらしょっちゅう参加させて頂いている。 勉強の為に世界で訪れた教会は三百を超える。 しかし建築家というのは非常に微妙な立場にある。 特定の教派に属してしまうと、他の教派の仕事が非常にしにくくなる。 だから洗礼を受けることはできない。現在は四ツ谷に教会を一つ。巣鴨にお寺を一つ。 もう一つ群馬でもう一つお寺を設計している。 考えてみると実に不思議である。もし神仏を全く信じないなら何処にも行かず、 正月はコタツの中でミカンを剥いてごろ寝していれば良いではないか。 ところが眠い目を擦りつつ除夜の鐘を聞きながら、真夜中の初詣へと勤勉に日本人はいそいそと出向くのである。 因みに私の父親は私が設計した勝林寺の納骨堂に預かって頂いている。 娘と息子の七五三の祝いは近所に多摩川浅間神社で執り行った。 正月にはその神社に初詣に行く。私は教授という職業柄多くに結婚に立ち会う。 昨今、人前(じんぜん)という形式の結婚式に出席することがままある。 結婚式はいつ行っても良いものであるが、人前結婚式というのはどうも腑に落ちない。 いつの間にか始まっていつの間にか終わってしまったような感じで、キレがないのである。
我々は職業柄地鎮祭という儀式に立ち会うことが多い。 この二ヶ月で4回も行っている。この地鎮祭というものが私は好きでたまらない。 神式の場合は「ウ?」という唸り声と共に神様が降りて来る。 神式であろうと仏式であろうとキリスト教式であろうと、出席者は真剣に建築の安全と引っ越してからの幸せを願っている。 出席者は人間である以上私も含めそれなりに少なからず後ろめたい想いを抱えているはずであるが、 そういう雑念が全部綺麗に吹き流されて皆善男善女になる。 全員が洗いたての洗濯物のようにパリっと乾いていて太陽の匂いを放っている。 何か良いことが起きているぞという気がする。 行儀の悪い私はどうしてもキョロキョロしがちなのであるが、 真剣な眼差しを砂に巻かれた地面へと30度の角度で落とす皆さんの横顔が見えると、 これはいかんと慌てて身を整えなおして頑張る。 地鎮祭をする度に、ひと風呂浴びて垢を落とした気分になり身が軽くなる。
結論から言えば人間というのは宗教を求める動物なんだろうと思う。 宗教の存在しない国はない。 政府がなくったって、セブンイレブンがなくったって宗教は必ず存在している。 いわゆる動物に神様はいない。 タイに行くとゾウの神様はいるが、崇拝する側はゾウではなく人間である。 ゾウの神様なのにゾウの面倒は診てくれないのだ。 人間というのは唯一他者の助けなしに人を生むことができない動物なのだそうである。 人の助けがなければ人間が自分でへその緒を切ることさえできない。 人とはなんだという前提を追い求めると、喋れることと道具を使えることを上げることが多いが、 しゃべれなくたって道具が使えなくたって人間は人間である。 一方、「他者に依存しないと生きて行けないという動物が人間である」と定義をするとほぼ間違いがない。 例え孤独なゴルゴ13だって他者に依存しなければ生きて行けない。 人間は装備がなければ森の中で一週間と生きていることができない。 生命豊かな森の中において、如何に鍛錬を積んだゴルゴ13であろうとも人間である限り、 葉っぱを栄養にすることができないのだ。 パンダのように笹をかじることはできない。 狼のように身体を駆使してウサギを狩ることもできない。 因みに「他者への依存」という理屈は東八幡の奥田牧師先生の受け売りである。 しかし色々と考えてみると、この「他者への依存」という言葉が一番普遍的にどの状況にも通用する。 そして人が人に依存して次の人に依存してという関わりをドミノ倒しのように続けて行くと、 最後には必ず次に依存する人がいない人、つまりあぶれる人がたくさん出てくる。 するとその先の受け皿を用意しておかないと安心できない。 そこに神様が出てくるのだと思う。 人は致死率100パーセントである。 必ず人生には終わりがくる。 その時私にも神様が必要になるかもしれない。
以前河口湖浅間神社の中田宮司さんに言われたことがある。 確かフランスから来た沢山の学生を案内した時の事だった。 キリスト教に帰依する学生が神社に入るのを躊躇しているのを見て、 「皆さんは皆さんの神様に祈って頂いて構いません」とおっしゃっていた。 都合が良いようであるが、これこそが今の日本の良さであると思う。 排除せずに違いを受け入れる。 二年ほど前、妙心寺退蔵院の副住職松山大耕氏とお話ししたことがあった。 TEDトークを京都で行っ時のことである。 私の隣に座られていた。 現代日本は色々な宗教が隣同士に座って問題がない稀有な国なのだという。 だからこそ世界の宗教が手を取り合う場として活躍すべきであるという理屈であったように思う。
結局のところ日本人は実のところとても信心深い人達なのだと思う。 ただし日本の政府がいい加減なので、沢山の宗教が八百万の神々の合間に乱立していて、 ドンキホーテのように選び放題なのだ。 しかしそのいい加減さこそが今の日本の平和を保っているのだと思う。 日本の宗教は独占禁止法がうまく機能している資本主義経済のようなもので、バランスを保っている。 もちろん世の中には危ない宗教もあって、全財産を無くしたり突然別人に変貌してしまうこともある。 その一方で宗教には良いところもある。 因みにこれは宗教に限った事ではない。 会社だって同じ事である。 就職してみたら悪徳企業だったということもあるし、 その会社のやっていることが素晴らしくて生きがいを見つけることだってある。 要は正しいことをしていて、他人の違いを受け止める寛容さがあるかという点さえ大切にしていれば良いのだと思う。
長々と書いたが、結論から言えば怖がってホテルに頼まなくても、 教会や神社や寺で結婚式をあげても良いんじゃないですかという話。 少なくとも私が関わった教会やお寺は大丈夫。 怖くないから。 特に結婚する建築家カップルは行ってみてください。 何もいきなり洗礼を受ける必要はない。 自分が必要とした時行けばちゃんと待っていてくれる。 それこそが神様仏様の本質なのではと思う。 ただしこれは平和な現代日本だからこそ言える呑気な見解なのかもしれませんが。
2017年7月3日
手塚貴晴