会堂は透彫に覆われている。描かれているのは新島の森である。江戸末期、禁を犯して米国に渡った新島襄はキリスト教を学び、日本へと帰り故郷安中の地に教を開いた。新島襄はその後さらに関西へと登り同志社を開いたことがよく知られている。さらに緩り七十余年を経て、安中の地に撒かれた種が芽吹き森として育ったのが現在の新島学園である。新島短大は新島襄が撒いた種から育った最も若い森である。幅五十六メートルの壁面に描かれた森は現世に存在しない。森は東西に深く暗く、南に向けて明るく開けている。創世記にあるエデンを想い、深い森から明るい光が立ち込める野原へと向かう情景を描いた。知恵の実を食したが故に追放されたアダムとイブが辿った道筋である。エデンからの追放は悲劇であると同時に、人間社会という文明の始まりでもある。優しく守られた学びの園から、学生たちは厳しくも自由な実社会へと旅立ってゆく。
脳裏に映った情景を六ヶ月かけて描き出した空想の森である。よって原画や参照は存在しない。描画の単位は六ミリ角である。小さな針穴を抜けた光が回折し、離れるに従い柔らかく滲む様は、実際の木漏れ日に極めて近い。空間に落ちる木漏れ日は内部の全てを包み込み実態を消し、奥行きが無限に連続する万華鏡の中に人を誘い込む。
装飾とは人類の叡智の叫びを伝える初元的な衝動である。空間と光だけが建築ではない。この森は一世紀を超えるモダニズムの軛からの脱却の試みでもある。歴史を振り返れば、装飾という恣意的な創作活動から建築家が追放されたのは、ごく近年の出来事であることがわかる。モダニズムは折衷様式の窮屈な規範から抜け出すべく自由への欲求であった筈である。その初期は過去の全てを否定する運動ではなかった。時代を経てその自由への運動が成功すると、その運動そのものが社会の主導権を握りイズムとなった。イズムへと移行すると、自由への運動は規範へと変質する。
自然物に勝る構造は現世に存在しない。構造デザインの道標が自然物であることは言うまでもない。ゴシックの教会におけるヴォールト構造が森の木々の表彰であるという語り口は尽きない。ここには石材のもつ圧縮にしか対抗できないという材料特性がある。石材は積んで作るものであるから水平力に弱い。石を扱う限りいかに屋根の重さを徐々に地面に伝えるかという創意工夫が不可避となる。結果として教会が自然物に似てくるのは自明のことである。一方、鉄骨や鉄筋コンクリートの場合は必ずしも自然物の形態に沿う必要はない。両者は自然物よりもはるかに強く、よほど大きな物を作らない限り、多少構造力学と関係のない形態を作っても差し支えがない。木造の場合はそう行かない。木は弱い材料である。よって木造には習わしがある。特に接合部は弱い。故に日本ではそれを補強するべく斗栱という特殊な組物が柱の上に発達した。木構造様式の多くは今や形骸化している帰来があるが、元々は殆ど構造面の欲求から生み出されてきた形状である。
今回の構造は揺れ動く森のように、互いに柔らかく支え合うフィーレンデール構造の集合体である。火打ちは合理性を保ちながらもランダムに分散配置されている。二重に並ぶ柱はゴシック教会の側廊と同様、力学に従っている。故に森と同様に奥行きがある。この構造はエデンの梢を支える枝であり幹である。降り注ぐ光の網の中で単なる構造物であることをやめ、森の一部となる。
ピアノの透明な音が響く。平行な壁のもたらす不快な反響をを防ぐために一枚一枚の透彫は傾いている。多孔質の壁は適度に柔らかく音を吸収する。森のピアノ。ここは新島襄の森。音も光も手触りも全て一つの存在であって欲しかった。