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なぜこのスープは美味いのか?

2023/7/13

「なぜこのスープが美味いのか?」という分析を科学者に頼む。すると科学者はスープを煮詰めてみたり、スペクトル分析をかけて内容物を調べる。塩加減を調べる。グルタミン酸の量はどのくらいか。しかしどんなに調べても答えは出ない。分析は定理を模索するための過程であるからである。その一方でごく普通の老婆が答えを出す。「当たり前じゃないの。」「今日は寒いでしょ。」「あったいでしょ!このスープ。」「このテーブルは昔からある家族のテーブル。」「それにこのスープは私が作ったのよ。」「あなたが何が好きかわかってるからねー。。」ここには一才の客観性がない。定量化もできない。しかし事実がある。前者の行為を分析と呼ぶ。後者の行為を観察と呼ぶ。Analysisとobservation の違いである。

建築意匠には定理というものは存在しない。建築論という世界がある。建築学会というものがある。工学あるいは科学という面から見れば、建築には正確な分析や結論というものが存在する。ところが一度「意匠」という世界に踏み入れると、客観性を保つ言説を放つことが極めて難しくなる。意匠の世界には定理というものが存在しない。建築設計の評価を数値解析に頼ろうとした時代があった。いや、今だに公共建築の世界では点数を合計して設計者を選ぶことが客観的であるかのように考える誤った慣行がある。そういうプロセスでは点取り虫のロクでもない設計者しか見出せない。数少ない優秀な公共建築は、数字ではない部分を苦労して評価する心を持ち合わせている稀有な人材が無理やり状況をつ作り上げられた幸せな例外である。群馬の役所で公共建築の新しい発注形態に取り組んだ新井久敏さんがそれである。しかし彼がどんなに努力しようとも出世するわけではない。恩給も増えずリスクを背負うだけである。物好きとしか言いようがない。無数のアンケートを集計し、優秀な建築とはかくあるべきとまことしやかに語る論文も横行している。建築の形態を幾何学の観点から分析を重ねる研究も多い。しかしどんなに努力しようとも、日本建築学会作品賞が、客観的な手法で選ばれることなどありはしない。最終的には審査員の経験と知見が導き出す曖昧な判断が賞を選ぶのである。定理とは読んで字の如く、定まった理屈のことである。誰もが最初に算数にピタゴラスの定理というものがあるが、定理とはまさしくそれである。世の中の石から空に至るまで殆どの事物は、無数の定理を駆使すれば分析することができる。ところが建築意匠の世界にはそれが存在しない。

それでは、どうやって建築の優秀さは判断されるのか?明らかに建築の良し悪しは存在する。それは建築とはその建築という個体だけで存在するのではなく、周りとの相互依存関係によって命脈を保っているからである。建築は人の評価と似ている。どんなに美女あるいは美男であっても、最終的に最も大切なのは中身である。その中身の評価はそう簡単にはわからない。本人が何を言おうが、本当のところはわからない。心の奥底は分析のしようがない。よく言われることであるが、「人は何を考えているのではなく、何をしているかで決まる。」怖いことであるが、どんな美辞麗句を並べようと、やっていることがダメならダメなのである。建築の場合は人よりさらに難しい。良かれかしと思った建築が、想定した通りに振舞ってくれるとは限らないからである。建築には人格があり、一度建築家の手を離れると、嫁にやった娘のように自分で判断して自分で動き始める。嫁入り先の水に合わないこともある。親として幸せであってほしいといつも願うのであるが、色々なことが起こる。いくら丁寧に育てても、結局建築は別人格なのである。難しい。

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