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子供は耐水性

2023/7/31

ふじようちえんには国内外から多くの見学者が訪れる。月によっては海外からの見学者だけでも400人を超えるという。通常運営してる園としてはかなり異例と言って良い。その見学者の中から質問があった。ドイツから来た教育関連の教授であったように覚えている。「この園は外廊下しかない。雨が吹き込んだら子供が濡れてしまう。どうするんですか?」当然の質問である。すると加藤園長先生は答える。「日本の子供は濡れたら着替えるんですよ。」あたりまえである。韜晦している。「それはドイツでも同じです。しかしそれでも子供は濡れてしまうでしょう?」すると「日本の子供は耐水性なんですよ。洗っても大丈夫。」と答える。当然である。「iphoneより優秀である。」と言う。当時のiPhoneは防水仕様になっていなかった。ここに不思議がある。子供が洗える仕様になっていることは誰もが知っている。ところが保育という世界に踏み込むと、「濡れる」ということが「あってはならない」ことになるのである。勿論程度の問題はある。何も「雨の日にびしょびしょに濡れそぼって良い。」と言っている訳ではない。ちゃんと軒はある。子供が濡れるとすれば台風の時ぐらいであろう。そもそも「台風の最中に子供は園に来るのか?」という疑問がある。そういう「もし?」「万が一。」という事を過剰に心配するのが保育業界と言って良い。当然と言える社会情勢がある。何か事が起きる度に「犯人は誰か?」と猟犬のように駆け回るマスコミがある。役人は当然のことながらそれを恐れる。暑い夏になると園長先生は子供達に上から水をかける。園長先生だけに許された特権である。子供達は嫌がるどころか喜び叫んでいる。ホースの水に飛び込みじゃれつく犬と変わらない。ふじようちえんにはガーゴイルがある。日本語で言うと雨落ちというのだろうか。屋根の水を集めてくちばしのようにところから落としている。その雨を集める壺が下にある。そこに子供達が手を伸ばして水を受け止める。びしょびしょである。そこにはごく自然な子供達の喜びある。

度々柱が問題に上がる。子供がぶつかるというのである。園によっては柱が緩衝材でぐるぐる巻きにされている。ふじようちえんではありえないが、どうやってぶつかるのかわからない壁際の柱までぐるぐる巻きにされている。事実ぶつかる子供もいるかもしれない。しかし柱にぶつかる子供達はどうやって森を歩くのだろう。歩道にはバス停の柱や看板がたっている。世の中はどこに行こうと邪魔物に満ちている。それが保育施設となった途端に「もし」「万が一」の出来事が大問題になる。それは誰かが責任を取らされるからだ。最近、子供同士が園内でぶつかる事故があり、岐阜の裁判所が園側に2030万円の損害賠償支払い命じた事例があった。安全管理をする為の教員配置を怠ったと言う。歯が折れた側と目を痛めた子供の親の心痛はわかる。しかし園にその責任を問うことが間違っていることは誰でもわかる。そして何より裁判所が賠償命令を出したことに驚きを隠せない。実は我々の息子もスイミングプールで他の子供とぶつかって前歯を折るという事故があった。しかしスイミングプール運営側の責任を問おうとは全く思わなかった。当然である。犯人がいなくとも事故は起きるのである。交通事故と園内の子供の衝突は別物なのである。この世は少なからず危険に満ちている。危険を心配してしては海にも山にも行けない。あたりまえのことが通用しない責任追求社会。その歪みが保育業界に重くのしかかっている。

現代社会ではラウドマイノリティ(声の大きい少数)が世論を動かす。「落ち葉が迷惑だから街路樹を廃止して欲しい」「枝が落ちてきたら危ない。」という意見もその類である。その時、いい諾々とその意見に従って街路樹を切り倒すのか、それともあたりまえの常識に従ってみどりを保全するかという選択は、責任者の度量にかかっている。京都市は街路樹を伐採しない理由についてホームページに載せている。その一方でいくつかの自治体では、街路樹を全部撤去してしまった。私が長年教えている大学でも、ある日突然樹齢80年の欅の並木が半分に切り落とされ丸坊主にされてしまった。多くの人が悲しんだ。大切なことは、サイレントマジョリティ(声の小さい大多数)の意見を聞くことである。そして何より自分の胸に手をあてて「世の為に正しい判断ををしているのか」と自らに問うことである。あたりまえのこと。それが通らなくなっている。

ふじようちえんの屋根の上を縦横無尽に子供達が走り回っている。その情景はTEDトークでも紹介され、保育業界では世界の隅々まで知られている。世の常としてその複製が出回る。私は「複製されること」は「世の中に受け入れられた」事として栄誉だと思っている。実際その一つに訪問した事がある。しかしふじようちえんとは何かが違う。どの子供も嬉しそうに走っていない。見ていると全ての子供が同じ方向に走っている。音楽が流れている。音楽が流れると走り、音楽が止まると止まる。トレーニングなのである。どの子供も自分の意思で走っていない。楽しい訳がない。

ふじようちえんの子供達は好き勝手に走り回っている。「子供達はぶつからないのか?」と頻繁に聞かれる。勿論ぶつかる。680人の園児が走るのである。しかし園長先生は「まだ誰も死んでいない。」という。園長先生特有のジョークである。しかし真実を掴んでいる。ふじようちえんの屋根が傾いている。水を流す為である。すると「傾いている床に子供を載せると平衡感覚が損なわれる。」という。「目眩や吐き気が生じる事がある。」とまことしやかにネットでは書かれている。しかしこの世は平ではない。山もあり谷もある。ふじようちえんの園庭は凸凹である。園長先生は「わざと凸凹のままにしてるんですよ。」という。凸凹の面を走る事で平衡感覚が育つという。

ふじようちえんの裏庭には砂場がある。しかし砂場というより砂浜に近い。広大な場所が砂に満たされている。世の中の砂場のように殺菌はしない。殺菌するには大きすぎる。ちなみに殺菌された砂場は危険であると言われている。抗生物質耐性菌が繁殖する。自然の土は多くの菌が混在し細菌叢を形成しバランスを保っている。だから特定の菌が大増殖したりしない。勿論その中には悪い菌もいるから、手洗いは大切であるが。その一方で子供はバイキンの塊である。自分の細胞の数よりも体内に同居する生命体の数ははるかに多い。細胞はそのバランスを司っているに過ぎない。その中には残念なことに抗生物質耐性菌もいる。抗生物質に頼りすぎた現代医療の弊害である。破傷風菌を退治した代償である。この耐性菌が殺菌された砂場で繁殖をする。そこには細菌叢がいないから、際限なく繁殖する。砂場を殺菌することはリスクを回避することである。しかし世の砂浜を全て殺菌することなどできはしない。殺菌した砂しかさわらせてもらえない子供達は、どうやって砂浜で遊ぶのであろう。

よく聞いてみると加藤園長先生はごくあたりまえの事を言っている。いわば常識である。その園長が特別に見えるということは、その常識をいう人が減ったということである。何事にもリスクはある。常識にはリスクが伴う。

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