Message

Back

手塚商店

2023/8/4

父親を語る時には手塚家について語らなければならない。佐賀県有田町に手塚商店という大きな町家がある。家伝は慶長の役にて功績をあげた手塚十郎座衛門が家祖ということになっている。しかしながら家として大いに繁栄したのは八代目手塚政蔵の時である。東インド会社等と交易を重ね富を蓄えた政蔵は有田銀行を起こした。のちに有田銀行は次々と合併を繰り返し、現在の佐賀銀行の一部となっている。その子の手塚嘉十および孫の手塚文蔵は銀行業を引き継ぎ頭取を務めた。

私の父親である手塚義男は十代目手塚文蔵の次男である。長男である手塚信雄は長期にわたりシベリア抑留となり鬼籍に入れられていた。そのため次男である手塚義男に銀行業を継がないかとの話があったようである。父親である手塚義男は断った。おぼろげな私の記憶によれば、田舎の銀行業というものが嫌いであった、あるいはその父親である手塚文蔵との性格の齟齬もあったようである。ちなみにシベリア抑留の後手塚信雄が帰国した時、既に佐賀銀行の主導は親族へと渡っていた。よって現在の手塚家は銀行業を相続していない。

祖父である手塚文蔵は無類の建築好きであった。手塚文蔵は二つの日本建築学会作品賞に関わっている。よく見られる自意識過剰の施主の例に漏れず、まだ物心おぼつかない私に自分が作ったと説明していた。一つは内田祥哉+高橋靗一氏による佐賀県立博物館、もう一つは内田祥哉+三井所清典氏による九州陶磁器文化館である。手塚本家は明治末期に完成した間口九間の大きな町家である。これに関しては三井所清典研究室による詳細な調査結果がある。創意工夫を暮らした瀟洒な作りで、今でも我が作品に大きな影響を与え続けている。

私の父親、手塚義男は鹿島建設の設計部長であった。ただし本社の設計部長ではなく九州支店と横浜支店の設計部長であったが、大人数の部下を抱えて奥に座る父親は尊敬の対象であった。時折遭遇する父親を知る人々の話を聞く限り、身持ちは堅いが女子社員にモテていたようである。

父親の人生で最も大切な仕事は皇居であったと思う。設計者は吉村順三氏で、それを支える設計JVのチーフとして父親は参加していた。吉村順三氏の事務所からは上田悦三氏が担当者として派遣され

ていたので、手塚義男の役目はあくまでも実施設計の補佐である。しかし補佐とはいえ国家の重大事に関わる仕事である。かなり誇りを持って取り組んでいた。私がそれと知っているのは、まだ小学生の私に図面や図録を広げて説明していたからである。今でも「毎日グラフ」別冊『昭和新宮殿』という雑誌が手元にある。1968年12月1日の発刊なので、まだ私は四歳に過ぎない。その雑誌をボロボロになるまで見続けて私は育った。今でも一枚父親自身が描いた平面図の青焼きが挟み込まれている。吉村順三氏は宮内庁と確執があり、完成を待たずに監理を降りた作品であるが、それでも極めて美しい。今でも手塚建築研究所の打ち合わせの折々に開く機会がある。バイブルである。

2008年に父親の車椅子を押して皇居に行く機会があった。通常一般人が絶対入ることのない昭和新宮殿の内部である。内部は驚くほどにオリジナルのまま維持されていた。宮殿という性格上当然なのであろうが、50年という歳月を全く感じさせなかった。部屋を一つ一つ回るたびに父親は物語を私に語った。巨大な鋳物の銅板屋根。豊明殿の巨大な一枚織の絨毯。窓側の空調機の収まり。トイレの詳細。まだ父親が存命の時に吉村順三展を見に行く機会があった。新宮殿の模型を前にして、丁寧に説明する学芸員の説明を聞き流しつつ笑みを浮かべる父親は、今でも忘れられない。

(2018年 KENCHIKU No.17)

Facebookでシェア
Twitterでシェア