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気持ちの良い家

2023/7/11

建築は芸術であるという。建築の美しさに魅了され、為政者たちは自らが生きていた証を遺す為に建築を作り続けてきた。ミケランジェロやダヴィンチは芸術家であると同時に建築家であろうとしてきた。建築家はクリエイターが行き着く究極の行き先と言って良い。だから今でも多くの若者たちが建築家になる夢を抱いて建築学科へと入学してくる。日本の現代建築のイメージの騎手である戦う安藤忠雄さんは80才を超えた今でも輝きを失わない。私も若い頃安藤忠雄さんの建築を見に行って、身を捩るような情熱に焼かれた瞬間を覚えている。今60歳に達しようとする今、私は安藤忠雄さんのような夢を若人たちに与えられているのだろうかいつも気にしている。安藤忠雄さんのような巨人になれるかどうかという現実はさておいて夢は失っていない。

しかし現実は甘くない。道を歩いていて安藤忠雄さんの作品に出会う機会は少ない。滅多にないから価値があると思う人もいるかもしれないが、その複製品でさえ出会う機会は少ない。我々もそれなりの作品群を作り名もそれなりに売れてきた。しかし我々の事務所の前に順番待ちの列ができるわけではない。現実は厳しいのである。私達がお世話になった伊東豊雄さんという巨人がいる。安藤忠雄氏に比べるともう少し優しい印象の建築家である。安藤忠雄氏のようにボクシンググラブを振り回したりしないし、細くて優しい目をしている。まだ独立して第一作の副島病院を完成させた頃のことである。そのたった一つの作品を何とか世に出すべく、福岡の博多デザインクラブに来ていた伊東豊雄さんに会いに行った。手塚由比は学生の頃伊東豊雄さんの事務所にインターンとして出入りしていた。私と結婚してロンドンに留学する時には、推薦状を書いて頂いた。我々はもと所員でもないのに、じつに図々しい話である。今度は出版のツテを頼もうとしている。「わかった。紹介しといてあげるよ。」との一言で我々の第一作である副島病院は、GAと新建築に華々しく出ることになった。その時のことである。「とりあえず第一作はできたのですが、次の仕事がないんです。」と我々が言うと、伊東豊雄さんが「そんな簡単に仕事が取れたらたまんないよ。」と呆れ顔で返してきた。わかってはいたが、「巨人の伊東豊雄さんでさえ仕事を取ることは大変なんだ」、という気持ちが言葉尻に籠められていた。安藤忠雄さんは百選連敗という本を出している。要は建築家として生きてゆくことは巨人である安藤忠雄さんや伊東豊雄さんでさえ大変なのだ。なぜそんなに大変かと言うと、建築は滅多に買う物ではないからである。公共にせよ個人にせよ、建築は人生の一大事である。「今日は気分が良いから建築家の事務所でもよってみようか。」という人はいない。ごく稀にリピートしてくれるクライアントがいるが、基本は一期一会である。そこの意味するところは、建築は思いつきでは建てない。ちゃんとした理由がないと作らないということなのだ。芸術的要素がその初期段階に入り込む余地はない。先に建物を建てなければいけない理由があって、「どうせやるならちゃんとやろうよ。」という先見の眼を持った人が施主側にいる時、ようやく建築の芸術が顔を出すのである。しかし大抵のプロジェクトの場合はそこまで頑張る理由もこ気力も存在しないから、安藤忠雄さんや伊東豊雄さんの事務所の前に列を成したりはしないのである。ここで誤解を避けるために書いておくが、私は建築の芸術性を否定している訳ではない。建築家の作家性も大切である。だからこそ、どこにその芸術性が生息しているのかという状況を理解しようと努めているのである。

「気持ちの良い家」という本を出版したことがある。著者ということになっているが、実は水野恵美子さんというライターが私達のインタビューを活字にした本である。いまとなっては建築家の間であたりまえに語られる「気持ちの良い」という表現は、その当時商業的に堕落した建築家の言い草のように語られていた。今は誰でも知る「屋根の家」も、ある雑誌の編集者から「これはコテージ。建築ではない。」と足下に打ち捨てられたことがある。今では信じられないことであるが、その当時、建築の芸術を追求することは快適さとは無縁の至高の行為で思われていた節があった。逆に言えばそのような時代だからこそ、我々が急成長したのだと思う。今思えば処女作となった「副島病院」は作家性と「気持ちの良い」という二つの面がトランプの裏表のように共存し、世の中の建築界はその都合の良い面だけをみていてくれたのであろうと思う。「副島病院」は建物一杯の巨大な日除をつけることで、大きな窓のある和室のような快適性を病室を持ち込んだ。その巨大な複葉機のような外観は、当時としては極めて珍しいハイテックとモダンを両立した作家性を建築界は見てくれたのであろうと思う。要は色々な建築界が都合の良い側面だけを見て評価してくれたのだと思う。多分我々も作家たらんとして一生懸命目立とうとしていたのだと思う。言い換えれば時代の建築界の言説に阿って(おもねって)いたのだと思う。その一方で私達はもっと自分らしくありたいと思っている我々がいた。

1994年に私達はロンドンを後にした。ロンドンでの新婚生活は素晴らしかった。働いていたリチャード・ロジャース氏の事務所も素晴らしく、毎日の仕事が刺激的であった。世界のすべての建築を変えることさえ可能であるかのように思っていた。今思い返せば後ろにリチャード・ロジャースという巨人がいたからこそ可能であったのであるが、相当に思い上がっていた。その帰国の途中のことである。私達は空港から都内へと至る車窓に広がる街並みの醜さに衝撃を受けていた。この混乱した現代日本の街並みを逆説的にユニークと評価する向きもあるが、私は断じて同意しない。明らかに醜い。日本は当時GDP世界二位。いったいこの国は何をやっているのか?その想いが「何をともあれ住んで気持ちの良い街を作る。」というのが当面のモチベーションとなった。

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