学生へ警告した。災害は祭りではない。手塚研究室では今回の災害を予見するように、ゴミ袋を使った緊急避難シェルターを発明していた。50枚ほどのゴミ袋を組み合わせて三時間程度で四畳半が出来上がる。しかも空気で作るから断熱性があり暖かい。画期的な作品である。これを作りに行きたいという。間違いである。我々の緊急避難シェルターは災害のあと一週間ほどは役に立つだろうが、それ以上の耐久性はない。もう一月以上経過している。学生達の目には「今こそ建築学科学生の力を見せつけてやろう。」という下心が光っていた。学生達に言った。「君たちが家々の泥をかき出す手伝いにゆくのであれば止めない。しかし作家としての自己顕示欲を満足させるために被災地に行くのは絶対にやめてもらいたい。迷惑である。」「君たちがどんなに頑張ろうとも、石原軍団のカレーに勝る行為はできない。石原軍団は彼らにしかできないことをしているから素晴らしいのだ。」「君たちの職能は遥か未来を見据えることにある。明日のことよりも、少なくとも50年先、できれば100年先を見据えて着実に歩を進めるのが仕事である。今動けば目立つかもしれない。しかしその行為が20年後に誇れる内容であるか考えてほしい。」
東日本大震災のあと、日本中の建築学科の卒業設計で仮設建築が流行った。そしてそれを如何に賢くリサイクルするかというアイデアを競った。そして、常設の建築を作ることが悪行であるかのように堂々と語る一群の学生が現れた。全国に卒業設計展の審査員をすると、二次審査に上がってくる作品の中に建物がなかった。一次でどういう審査をしたのか不明であるが、多くが如何に建物を作らないかという手法を競っている。古い町並みの一角を壊して広場を作ればアウトドアリビングが生まれるという。集合住宅を壊して緑一杯の墓地を作るという。プレハブを作ってリサイクルしながら動く街を作るという。いずれも美談である。しかし美談に過ぎない。偽善でもある。人は建築なしに生きることはできない。だから良い建築を作れば良い社会が生まれる。それが建築家の使命である。美談は大切であるが、美談は始まりに過ぎない。美談を現実の出来事に昇華させることこそ建築家の本望である。その作業は長く地道な作業である。時には10年かかる。時には逆風にもさらされる。しかし、いつかわかって貰える日が来ると信じる。そういう職能である。