Message

Back

All good things

2023/9/27

この世は素晴らしい出来事に満ちている。ここはヒマラヤの尾根にある孤児院。都市から500キロ以上離れている。夕暮れの霧から子供達が駆け出してきた。Good evening sir! Good evening madam!小さな手を広げて次々と子供達が抱きついてくる。なんと遠くまで来たのだろう。場所のことを言っているのではない。人生における建築家としての旅路のことを言っている。Capital of all good things. この孤児院を創設した指導者ゲンラは、「世界の良きことだけを集めた場を作りたい。」という。建築はそのハブとなる。そこに関われる我々はなんと幸せなことだろう。

All good things end. 全ての良きものには終わりが来るという。私達は素晴らしい人生を生きている。ここヒマラヤに娘と息子を連れて訪れている。素晴らしい家族があり、素晴らしい人たちと日々出会っている。しかしいつの日か娘も息子も伴侶を見つけて自立してゆく。いつか人生にも終わりが来る。命はロウソクの火だという。明るく瞬く火は美しい。しかしその火はいつの日か消える。大きなロウソクも小さなロウソクも同じようにいつか消える。世の中には人を照らす素晴らしい火もあれば、人を焼き尽くす悪い火もある。その良い火だけを集めたい。世の中からロウソクの火が消えないのは、人々が火を移し続けるからである。建築にはその命をつなぐ力がある。

建築の物語を綴りたい。私達はかなり理屈にこだわる建築家であるが、「建築論」という範疇に分類される本は苦手である。読めないわけではない。建築を学ぶ以上読まねばならず、教員としてはそれを教えなければいけない。特にジェームス・ギブソンのアフォーダンス論やクリスチャン・ノベルグシュルツのゲニウス・ロキは擦り切れてページがちぎれるほど読み込んでいる。しかしどうしても村上春樹の小説を読む時のように、コーヒー片手にソファーで心躍らせながら建築論を嗜むことができない。特に建築界でしか通じない言語の羅列は苦手である。理屈系の本としてはむしろ立花隆が書いた脳神経系の話の方が面白い。その一方でいつの日からか、現実の建築にまつわる理屈というものが小説にも増して愉しいものであることに気がついていた。建築という行為は大いなる蜜の甘みに満ちているのである。美しい図面を作れるようになることは、建築の学生にとって大切なトレーニングである。建築の技術を知らずして良き建築は作れない。同様に建築論も大切な知恵である。しかしそれだけで良き建築は作れない。この世に「なぜ建築を作るのか。」「建築の力とは何か。」という最も大切なテーマを授業科目に掲げている建築学科は存在していない。そんなものは文部省は授業として認可してもらえないし、論文として学会に提出することもできない。

ジョン・レノンをいくら分析してもジョン・レノンの音楽を超えることはできない。ジョン・レノンがしかめ面で理論書を読み込んでいたとは到底思えない。同様にいくらル・コルビュジエを分析してもル・コルビュジエを超えることはできない。近代建築の五原則なる理屈を唱えたのは、作品を作った後である。彼らは信念の導くままに作品を奏で続けていたに過ぎない。建築は世の中の一部である。世の中の森羅万象は互いに補完し合い繋がっている。その繋がりの中にある細い一本の糸を取り出そうとすると簡単に切れてしまう。解きほぐすことなしに、そのあるがままの事象を観察しないと、物事の本当の価値はわからない。

誰もが知る司馬遼太郎という歴史作家がいる。彼は坂本龍馬という山師を明治維新を成した英雄に仕立て上げてしまった。歴史の専門家はしばしば彼のことを「嘘を書いている」と批判する。当然である。彼は歴史家でなく小説家なのであるから。西郷隆盛の会話などどこにも記録されていない。しかしその嘘が大衆を魅了し、無数の明治維新ファンなる世代を作り出した。同時代にもう一つの独峰として池波正太郎がある。彼はその歴史小説の中に生き生きとした料理の描写を織り込んでいる。彼の字間には、匂いが漂い汁気が艶やかに光っている。彼は料理本らしきものも出版している。しかしその本を読んでも、塩加減や火加減は伝わらない。料理にまつわる出来事として描かれているからである。その趣味のエッセイのような軽い文章が、真面目な料理本よりも遥かに多くの美食家を日本に生み出している。

建築は物ではなく出来事である。なんのために建築を作るのか。To be not to be. 作るべきか作らざるべきか。建築を作る人たちへ。建築を学ぶ人たちへ。建築を使う人たちへ。この想いを伝えたい。

40分の映像です。エミー賞。素晴らしいのでぜひ。

Facebookでシェア
Twitterでシェア