ノミの市は魅力的である。何をするわけでもなく、愉しみを求めて人々は徘徊する。そうこうするうちに、真鍮のスプーンだの壊れた手巻きの時計だのに釣られてしまう。なぜか魅力的に見えるのである。気がつくと買ってしまう。その時は良い買い物をしたと思う。そして家に帰ってから必ず後悔する。「なんでこんな下らないガラクタを買ってしまったのだろう。」ノミの市の品は、ノミの市を出た途端に魅力を失ってしまうのである。
「何も立派なものはありませんよ。」と園長先生は言う。世界には立派な幼稚園が沢山ある。車の世界で言えばベンツ、ロールスロイス、ベントレーの様なブランドがあるように、そういう幼稚園は立派である。そういう園に行くと、立派なお店屋さんごっこの為の立派な小屋がある。そこには木でできた本物そっくりのレジがあって、カゴにはよく出来た樹脂製の野菜が入っている。体の大きな加藤園長先生は小さな軽自動車に乗っている。立派という言葉とは無縁である。園庭の裏には子供用のキッチンがある。といっても、そのキッチンにはレンジもかごも何もない。朽ち掛けたテーブルに鍋を引っ掛ける為かもしれない木の横棒が付いているきりである。そのボロボロの設えを世界各地から訪れた、立派な施設を持っている園長先生やオーナーが写真を撮っている。不思議である。加藤先生はこれの方が良いという。「立派な物を与えると、子供は工夫しなくなる。」という。もしかすると世界から来た立派な方々は、あのボロボロのテーブルの写真を国に帰ったら建設会社に見せて、「これを作りなさい。」とでもいうのだろうか。しかし皆さんは気がついていないのだ。ノミの市の品は家に持って帰ると単なるガラクタになってしまうということを。ふじようちえんの魔法は敷地を出ると溶けてしまうのである。
ふじようちえんの庭には宝石が埋まっている。宝石といっても、実は殆どがニセモノ。その中に時々本当の宝石が混じっている。園長先生のイタズラである。本物が入っていると聞いて、親も子供に「頑張ってみつけて来なさい。」という。持ってくると親に子供は褒められる。そこに演技や阿りはない。リアルである。といってもクズ宝石で、売れるような品は入っていない。だけど良いのである。園長先生は客の心理をよくわかっている屋台のオヤジさんである。
ふじようちえんには園長室らしきものがない。その代わり入口の側にカブトムシだのザリガニなどをズラリと並べて、その奥に座っている。私の子供の頃近くの御霊神社に祭があると、数日限りの市がたった。今思うとそれなりの筋の方々がやっていたように思うが、その刺青モンモンのお兄さんたちに可愛がってもらって、店番などをさせてもらっていた。その参道の要所にハッカパイプの親分が座っていて、商い全体に睨みを効かせていた。胴元である。加藤先生の園長室はそれである。誰もが園長先生が一番偉いと知っている。園長先生は園で起きていることを全部見て知っている。登園して来る子供は皆「おはようございます。」園長先生は「おはようございます。」あたりまえのようで今まで無かった美しい日常がそこにはある。
ふじようちえんはさして立派な建築ではない。もちろん建築家として詳細には相当拘っているが、もはや今となってはそんな事はどうでも良くなってしまっている。ノミの市の魔法が今日も園庭に立ち込めている。