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自らのルーツを、子どもと辿る。

2022/8/22

日本を代表する建築家として、広く世界を舞台に活躍する手塚貴晴・由比夫妻。ともに大学で教鞭を執る学術肌ながら、家庭ではパパ=青、ママ=赤、子ども=黄と、なぜか色分けによってキャラクターを立てたユニークなスタイルのもとに暮らす。そんな手塚さんが長女無捺ちゃん(3歳)を連れて旅立った先は、九州佐賀県。自らのルーツの地である有田町で、そして建築家としての処女作のある佐賀市で、父は子に何を見せようとしたのか……。

「手塚貴晴+手塚由比」という夫婦建築家の看板を掲げている以上、私は子どもを妻に任せっぱなしの夫ではないつもりである。子どもと時間を過ごすことを何よりも大切にしているつもりである。ところが縦に抱いたり横に抱いたり、父親がどんなに頑張っても止められない夜泣きを、母親はピタリと止めてしまう。母乳は最終兵器。文字どおり、〝目に入れても痛くない〟ほど娘が可愛い私ではあるが、必ず負ける運命にある。悔しい限りである。どんなに頑張っても、所詮父親はレクリエーション係なのだ。

 ところが半年ほど前に、転機が訪れた。下に息子が生まれたのである。すると当然のことながら、母親は息子にかかりきりにならざるを得ない。娘の作戦変更は速やかであった。「パパのブナちゃん」「ブナちゃんのパパ」といったフレーズを連発するようになり、挙句の果ては、夜、妻と私の間に割って入り、「ママはダメ!」とまで言うようになってしまった。読み聞かせの本さえ、パパにしか読ませないこともしばしば。悲しくなったママは涙ぐんでしまう。ここまでくると、嬉しいを通り越して心配である。

 最近パパは忙しい。乳児を抱えている妻の分まで会議を受け持たなければならない。夜遅く帰ると、だが娘は頑張って起きている。ママとしては不満なのだが、それでも私は嬉しくて、満面の笑みで抱き上げてしまう。寝かしつけるべく孤軍奮闘していたママは、そこで大変に御立腹となる――。今回の旅の話は、このような状況下でふいに持ち上がった。忙しい毎日を送る私にとっては渡りに船。娘ともゆっくり過ごせる。決断は早かった。

 娘は旅慣れた子どもである。3歳ながらすでにロサンゼルス、ボストン、ニューヨーク、シカゴ、ワシントン、フィラデルフィア、ロンドン、ヴェニス、クラクフを旅している。とはいえ、パパと二人旅というのは初めて。出発前夜、ママが「明日はパパとブナちゃんだけで旅行するんだよー」と言うと、怪訝そうな顔。やはり、いざママ抜きとなると不安なのか。

 カメラマンとの集合は、羽田空港で朝8時半。早い。自分の荷物をパンツと靴下だけにしても、娘の着替えを持つと結構な量になる。非常食のクロワッサンも持ってきた。親馬鹿なのかもしれないが、娘は結構グルメである。食パンだってカイザーじゃないと食べてくれない。パパお手製〝究極のハンバーグ〟なら200グラムをペロリと平らげるが、ファミレスのハンバーグには箸もつけない。

 タクシーで空港に着いたのは7時半。早すぎた。マイレージを貯めているJALではなくて、今日はANA。なのに娘はクラブラウンジに入って、タダでオレンジジュースを飲めるものだと思っている。このままでは鼻持ちのならない娘に育ってしまうかも知れない。今後は気を付けようと反省。

 娘はエスカレーターが大好きである。空港で見つけるなり、「あっちいくー」。上に着くと、「こんどはこっち」と下りに乗せられる。唯々諾々と従っていると、同じところを延々と上下させられて目が回ってきた。現在設計中の『ふじようちえん』の副園長先生によれば、子どもは同じことを43回繰り返すと満足するそうである。さすがに43回上下させられてはかなわないので、「手土産にする菓子折りを買いに行こう」と誘う。ところがショップが並ぶ吹き抜けには、エスカレーターがまた沢山あって、同じことの繰り返しとなる。結局、エスカレーターに43回たっぷりと乗るハメになり、クタクタになってしまった。旅はまだ始まってすらいない。

 羽田を離陸して間もなく、スチュワーデスさんがいろいろとおもちゃを持ってきてくれた。長々と吟味した末、ブナはピカチュウのハンカチを選ぶ。さっさと自分の黄色いバッグに入れて、チャックを締める。やはり女の子である。将来大きくなった暁は、こんな具合にハンドバッグにハンカチをしまうようになるのかと思う。

 福岡空港からは地下鉄で博多駅へと移動。特急に乗り換えて有田へ向かう。目的地は『手塚商店』。我が手塚家のルーツである。車中でも、ブナはパパを踏みつけ、とんだりはねたり。ここでもパパはクタクタである。昼寝する気配はまったくない。

 有田駅には迎えが来ていた。手塚英樹氏。最も頻繁に東京の手塚家へ遊びに来てくれた従兄弟である。その頃、私は4歳。当時のことを私は今も思い出せる。ブナも、今回の旅のことをずっと覚えていてくれるといい。

 手塚商店では、家族総出で迎えて頂いた。当主である叔父の手塚信雄氏の導きで、座敷へと通される。手塚商店はかつて東インド会社とも交易した磁器の輸出商社で、当時の贅を尽くした町屋の佇まいを今に遺す。間口九間の漆喰の外壁は堂々たるもの。紫檀で設えた床の間のある座敷は、二度と作れない財産である。中庭と内部空間が入れ替わり展開する空間は、百年を経た今見てもモダン。私はこの家で育った訳ではないが、来ると決まって帰ってきたような気分になる。

 席に着き、紋の入った杯でお屠蘇を頂く。ブナは座布団の暮らしを知らないが、ちゃんと座ってくれている。さすがにお屠蘇の儀式は嫌がったが、子どもながらに場の雰囲気を的確に感じ取っているようだ。しばらくして、二十畳はあろうかという仏間へ移り、巨大な仏壇に手を合わせる。仏壇を見たことがないブナは、どうしていいか判らない。手を添え、線香をあげさせる。

 墓参りにも行った。有田ならではの、煉瓦を連ねたトンバイ塀が続く道。その道を下って、小さな橋を渡った先に墓地がある。手塚商店からは目と鼻の先。こういうのを、先祖の墓を守るというのだろう。日常に密着している。

 墓からの帰り道、従兄弟の娘さんが「撫でると頭がよくなるのよ」と小さなお地蔵さんを指差す。ブナは「ナデてみるー」と言い、神妙な顔をして撫でる。こんな小さな子でも、自分の頭の出来は気になるものかと感心する。

 従兄弟の娘さんふたりはとても行儀がよい。どちらも大学生で、大学教員である私の目から見ても、品よく健やかに育っている。さて我が娘は……、と目をやると、犬を檻に閉じ込めて喜んでいる。

 従兄弟の教育方針は、「六年生までは叩く。中学以上は諭す」だそうだ。娘さんたちの口から言わせても、怖い父親だったらしい。ところが見る限り、従兄弟は娘さんたちの信頼と愛情を手に入れている。だが私自身は娘を叱ったことがない。叩くなど絶対にできない。そのせいか、娘は行儀が悪い。優しいパパのままでは、子どもを駄目にしてしまうのだろうか。

 宿泊は武雄温泉の『湯元荘 東洋館』。有田から車で30分程度の、由緒正しき温泉宿である。ブナは、車中でとうとう沈没。宿に着いて、そのまま布団で熟睡となる。食事時になっても、起きる気配はいっこうになし。そこで、パパは溜まった原稿を片付けるチャンスとなる。さっさと夕食を片付けて机に向かう。意外なほど仕事が進む。いつの間にか夜中。危険なパターンである。夕寝した子どもは夜中に起きる。

 案の上、夜半頃に起きだしたブナちゃん。開口一番、「ここだれのおうち?」。「パパと旅館に泊まってるんだよ」と言うと、「ほんとはパパとママ、りょうほうがよかったのー」。意味深な言葉である。そして入浴。ブナは木の桶にタオルを入れ、ビチャビチャと叩いて、「おもちつきしてるのー」。年末、所員と学生を集めて催した餅つき会を思い出し、真似しているらしい。だがせっかくの食事は、カレーをほんの少し食べただけ。ハンバーグに至っては見向きもしない。そう、私の娘はグルメなのである。就寝は夜中の3時頃。

 翌朝は8時に朝食。しかしブナは海苔しか口にしない。シャケとご飯の海苔巻きを作ってやると、ようやく5つほど食べてくれた。

 9時。小さな浴衣を着て得意満面のブナは、パパを従えて大浴場へと向かう。誰もいない。撮影用に特別に空けてもらったのだから当たり前である。広い風呂に、ブナはご機嫌。調子に乗ってザブザブ歩き回っていると、突然深みにはまって「ウェーン!」。それでもすぐに気を取り直し、またタオルの〝餅つき〟を始めるブナちゃん。なかなか上がりません……。

 武雄を離れ、次に目指した先は佐賀の『副島病院』。パパとママが独立して初めて設計した建物である。佐賀駅からタクシーで向かう途中、昼食をとることに。汁粉屋の『一平』に入る。お餅はブナの大好物なのだ。パパは雑煮と栗大納言を注文、ブナ用にはお願いして、メニューにない砂糖醤油と焼餅を出して頂く。さすがにこれはよく食べてくれて、パパもひと安心。

 副島病院に着くと、会長先生夫妻が迎えて下さった。まずは待合ホールから見学。ところが庭の端にある土手に駆け上がったブナは、「パパもきてー」。それから30分、長さ40メートルの土手をひたすら行ったり来たり。どうも建物には興味がなさそうだ。その後、同じ敷地で進行中の増築現場を見て回る。私もしばし、仕事モードに切り替わってしまう。ブナは少々不満そう。

 手塚家と、副島病院を訪ねた“娘との二人旅„は、その後つつがなく終わった。次の朝、ブナはパチリと目を開け、「パパとブナちゃんでおでかけしたのー」。パパの疲れは、その一言で吹き飛んでしまった。

(初出:Esquire2006年4月号)
(写真:伊藤徹也)

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