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ふじようちえん その5 壁のないこと

2023/6/6

ふじようちえんには壁がない。「子供はどこに隠れるのか?」「手塚は「デン」を知らないのか?」という批判が多い。デンとは隠れ家という意味である。これは単に遊びで隠れる場所を探すという意味ではない。教育の専門家であれば誰でも知っている「子供の逃げ場」あるいは「子供が落ち着ける場所」である。私自身にも覚えがある。自分の子供達もダンボールの箱を作ってささやかな別荘を作っていた。小さな隠れ家があるのは楽しい。学校にあっても良いと思う。しかし教室の要件となると別物になる。部屋は建築基準法の対象内になるからである。そうなるともはや子供達が好きなサイズではない。子供が好きな大きさは犬小屋程度である。子供にとって作り込まれた本棚や椅子などは邪魔である。子供は自分で巣を作りたいのである。

そもそもなんで教室に逃げ場が必要なのかという疑問がある。理由は単純で教室に居たくない子供がいるからである。言い換えれば、子供が居たくなる教室になっていないからである。これは教育の問題でもあり建築の問題でもある。教室で立ち歩く子供がしばしば問題になる。なぜ立ち歩くかと言えば、その場に居たくないからである。私にもわかる。眠いところを我慢して座っているのは苦痛である。それを必要な鍛錬であるという考えもある。それは正しい。公共という全体社会を考えた時、一方向にしっかりと並んで座っていられる国民は都合が良い。

境界には内と外がある。曲輪という言葉がある。城郭の原型である。守るということは閉じ込めることでもある。人は階級を作る動物である。階級は古来よりの社会構造の基本であり規範を作ってきた。階級は一定以上の共同体を作る上で不可欠なシステムであるとも言える。牢名主という古い言葉がある。既に強力な規範の中に押し込められているにも関わらず、その中に階級と規範を作るのである。境界の大きな例は国家である。いかなる国家も外国人と国民という差別のもとに規範を作り上げている。学校を子供が社会に出る前の訓練機関だと考えると、壁のある教室は実に有効な形式である。国民の品質を保つ上でも有効な手段である。

今教育の目的が大きく変わってきている。原因は多方面から見たグローバリズムであろう。若い世代にとって、国家は絶対的な存在ではなくなってきている。特に顕著なのはEUで、今やフランス人ドイツ人イタリア人の間の境界は消え失せつつある。国境を越えての婚姻は当たり前のこととなり、子供達にとって明確に属する国家はわからなくなりつつある。未だロシアとNATOという境界はあるが、若い世代にとってはそれさえも意味不明な存在である。その中で教育は国家を支える国民を育てるという役目から、地球環境あるいは人類の存続を大切にする人類を育てるという倫理に移りつつある。その中で教室の設計が変化することは実に自然な出来事と言える。

教室を壁という境界で囲うと、人間はごく自然に人間の本性に従って階級を作る。その中でいじめが起こる。限られた集団の中で自らの優位性を保つ為である。程度の違いさえあれ、これはほとんどの教室の中で起きている否定することのない事実である。牢名主という単語は非常に不快な響きを持っている。不快に人が思うのは、容易にそういう状況が想像できるからである。人々は完全に荒唐無稽なストーリーは理解できない。SFであろうとバイオレンスであろうと、観客が理解できるように作り上げられている。精神学者パブロフの古典的実験が示すように、人間は過去に経験した条件反射にしたがって物事に反応をする。牢名主を否定することができないように、学校の教室の中には少なからず階級制度が存在するのである。

人はそれぞれ違った距離感を持っている。詳しくはエドワード・ホールの隠れた次元Hidden Dimensionという名著に書かれている。昨今人種偏見の下りが批判されてか重版されなくなったのは残念であるが、かつて建築学科の学生必読の書とされていた。そこには動物から人種に至るまで自己の持つ距離感の違いが書かれている。人間と環境の境は皮膚にあるのではなく、無意識に支配される距離感にあるというのである。人間は元々森の中で育った動物である。それが建築という囲いの中で近い距離感を第三者と取るように進化を遂げた。その中で大多数が許容する距離感を共有することができない子供がいることは自然なことである。

ふじようちえんには壁がない。決して設計当初から確信してわけではないが、園長先生が「何か良いことが起きるのではないか?」という予感をもっていたことは確かである。これは実は「ふじようちえん」に限ったことではなく、多くの園にて合同保育という名で試みられていた。しかし建築という容れ物が変わらない限り限界があった。それを建築という容れ物ごと変えるという勇気をもったのが「ふじようちえん」であったということである。その結果として「ふじようちえん」は世界の教育業界に大きな変革をもたらした。

変革をもたらしたということは、そこに至るまで変革を拒んできた要素があるということである。改革できなかったのは規制のせいだと見做すこともできるが、理由もなく規制は生まれない。規制を生む元は心配事である。その心配事は「ふじようちえん」が実現した後でも社会の中に残っている。未だ「ふじようちえん」は少数派である。

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