Message

Back

教会の扉

2017/11/20

教会の扉はいつも議論がつきない。教会の扉は神聖な空間と世間の間を切り分ける境だから当然である。
奥田知志牧師さんによれば「不思議なもので礼拝堂に入った途端みな静まりかえる。」のだそうである。
これが教会員の方々ならともかく、右も左も怪しい子供も静かになるのだから不思議なものだ。

旧来の西欧の教会とは違い昨今の教会にはホワイエというものがある。
ホワイエというのは建築用語。いわゆる人溜まりの空間である。
特に日本の場合はそうならざるを得ない特別な事情がある。
単に雨が降っているのでいきなり外は困るという機能的な事情ではない。
日本の街は宗教建築の外と中をいきなり繋げて良いようにはできていないのだ。
「門前の小僧」はいても、「扉前の小僧」というのはついぞ聞いたことがない。
仏教寺院の場合は本堂の前に少なからずの境内があってその前には門が構えている。
西欧の教会のように広場あるいは道に向かっていきなり扉が面していて、
扉を開けるといきなり中という日本の寺院はないのだ。境内は外でもなく中でもない半神域なのであって、
その曖昧模糊とした空間が世間と神域を緩やかに繋いでいる。
もちろんキリスト教会の場合までその仏教の伽藍配置を参照する必要はないのであるが、
日本の街が人がいきなり建物から外に出来きて良いようにできていない以上、
中間領域を設けるのはごく自然な事なのだ。加えて日本のキリスト教徒はマイノリティーである。
マイノリティーであるという事は、世の大多数の人々との関わりに気遣いが必須となる。

扉はホワイエの街路に面するべきなのか、それとも礼拝堂とホワイエの間にあるものなのか。
結論から言えば今のところ私が設計した教会はいずれも、
紆余曲折の議論の末に礼拝堂とホワイエの間に落ち着いている。
要はホワイエまでが俗世であり、神聖な空間はやはり礼拝堂だけなのである。
間も無く四ツ谷に竣工する番町教会では、Open for allという使命を頂いている。
端的に言えば入りやすく開かれた教会という意味である。
ホワイエは誰もが入りやすい開かれた雰囲気で、
その奥に神聖な空間へと導く扉が控えているという構図である。

因みにここでいうところの扉とは単なる扉ではない。
礼拝堂らしい襟を正して開く扉のことなのである。襟を正して開く扉とはどのようなものであるのか。
そもそも襟がないどころかいつも青Tシャツの私にとってこれは大きな問題である。
単に重たくいかめしい扉を作れば良いというものではない。
軽すぎてはいけないが、親しみやすさも必要である。
どこか海外から拾ってきたかのようなイミテーションはもっての外。
教会が建つその地に相応しい振舞いをしなければいけない。

私は職業柄世界各地を回り無数の教会を見て回る。多分今まで見た教会は30カ国以上500を下らないと思う。
今年だけでも数えて見てみると50件以上見ている。これからも年末までに多分10件以上は見る。
しかし教会設計を請け負うようになったのは、つい7-8年前からのことである。
実際に作る立場になると見る目が変わってくる。
礼拝堂の扉に裏と表があることに気がついたのは最近のことである。
礼拝堂の扉は単に重いだけではないのだ。外に対してはしかるべき尊厳を保ちながら、
内側にはいかにも内側らしい構造を見せている。
確かに西洋の教会の扉は風雨にさらされるし、 時としては外敵から村民を守る場でもあったから、
外は防水仕様で内側には閂というごく自然な帰結であるのかもしれない。
しかしその当たり前の仕様が教会の扉らしい佇まいを成しているということに気がついたのは、
つい数ヶ月前に6世紀創建の教会をクロアチアに尋ねた時のことである。

番町教会の扉を作るために作った扉は十枚以上。1/1の原寸模型も作った。
私はしょっちゅう気が変わる。だから所員が一生懸命作った模型はすぐ期限切れになる。
半年ぐらいは期限切れを作り続けた。そしてある日僥倖が訪れた。これだという瞬間が来た。
その気持ちは教会の人々にも伝わる。皆笑顔でOK。嬉しい。

手塚貴晴Facebookページ(2017/11/7)

2017/11/7
手塚貴晴

Facebookでシェア
Twitterでシェア